「子どもがなぜ犠牲に」事件取材で葛藤
null記者として、時には暴力団員や犯罪関与者とも対峙してきた緒方さん。1995年の地下鉄サリン事件をはじめとする、オウム真理教による一連のテロ事件など、さまざまな凶悪事件を取材してきたそうです。
緒方健二(おがた けんじ)
1958年大分県生まれ。毎日新聞社を経て1988年朝日新聞社入社。警視庁キャップ(社会部次長)、事件担当デスク、警察・事件担当編集委員、組織暴力専門記者。2021年に退社し、2022年4月短期大学保育学科入学、2024年3月卒業。保育士資格、幼稚園教諭免許、こども音楽療育士資格を取得。得意な手遊び歌は「はじまるよ」、愛唱する子守歌は「浪曲子守唄」。

「“働き方改革”なんて言葉は、もちろんない時代です。ひとたび事件が起きると家には帰れず、警視庁の中にある畳部屋で寝る日々が続きました。愚息がおりますが、仕事にかこつけて育児は妻に任せきり。世間でいうところの“よき父親”像には遠く及ばない父親でした」(「」内、緒方さん。以下同)
事件に追われる過酷な日々のなか、とりわけ子どもが被害者になる事件に、強い怒りとやるせなさを感じたといいます。
「大人同士のいさかいは、もちろん理不尽なものはたくさんあれど、何らかの関係性があったり、感情のもつれがもとになっていたりする場合が多かったように思います。
しかし子どもが被害者になる事件では“この子は自分が何をされたのか、なぜそんなことをされるのか、まったくわからないまま生命をおえてしまったのではないか”と考えてしまうようなケースばかりでした」

保育園などでの実習の際に必要な名札は「手作り」がルールだそう。これは緒方さんの力作「犬」!
いったい大人は何のために存在しているのか。そんな思いを抱えながら、二度と同じような事件が起きることのないようにと事件の背景を取材し、報じることによって再発防止の手立てを探ってきたものの、次から次へと悲しい事件は起きます。
なかには、保護者のママ友が加害者となった事件も。判決では、事件の背景に子育てをめぐる悩みがあったことが指摘されました。
「子育てをする人たちが孤立している。警察官も、子どもの生育環境までは手が回らない。記者としても限界を感じたとき、子どもの健全な成長や発達を育む環境、保護者にとって本当に必要な支援……“子どもを守る”ことについて、真剣に学んでみたいと思いました」
そして保育学科のある短大に片端から電話をかけた緒方さん。2022年、10代の学生にまじって、63歳の新入生が保育学科に入学しました。
老眼で読めない楽譜「一節弾いていただけませんか」
null何と言っても苦戦したのは、短大の卒業、保育士資格・幼稚園教諭免許の取得に欠かせない“ピアノ”だったそう。音楽は好きだったものの、緒方さんはピアノ未経験でした。

緒方さんが授業の中で最も苦労したという「ピアノ」。楽譜には苦労の跡が……。
「そもそも左手と右手で違う音を弾くなんてことが、できるわけないと……」
しかし卒業までの2年間で、64曲で合格点を取らないと卒業できません。ピンチを救ってくれたのは、同級生のみなさんでした。
「老眼で楽譜がよく見えないのですが、耳で聴くとメロディを覚えやすいことに気づきました。同級生のみなさんに“申し訳ないのですが、おべんとうばこのうたの、この一節を弾いていただけませんか”などとお願いすると、ご自身の練習の手を止めてでも丁寧に教えてくださいました」
父親より年上の同級生を、保育士や幼稚園教諭を目指す学生のみなさんは温かく受け入れたようです。

すべての音符に「ドレミ」をメモ。「指を置いたまま」とか「ゆっくり」とか弾き方の指示も。
「とてつもなく風体怪しく、おそらくあまり接したことがない部類の大人だったろうに、学生たちからは“一緒に学ぶ仲間だからね”というようなあたたかき眼差しをひしひしと感じ、手厚くご支援いただきました」
ただ緒方さんは持ち前の取材力を発揮し、尋問並みの質問攻めで教員から試験の出題範囲を聞き出していたそうですから、学生のみなさんにとっても、さぞ頼もしい存在だったことでしょう。
短大のピアノコンサートでは、ピアノの超絶技巧を誇る別クラスの女子学生から頼まれ、その方の伴奏で長渕剛さんの「乾杯」を歌い上げました(その時の動画はこちら)。
「私としては高倉健さんの名曲『唐獅子牡丹』を歌ってはと申し出たのですが、ご存じないとのことでしたので、いろいろと協議して『乾杯』に。歌い出すと客席の女子学生グループが、歌いやすいようにと左右に手を振ってくれました。後ろで見ている先生方の視線も温かくてね」
過酷な職業として挙がることの多い保育士や幼稚園教諭ですが、その道に進もうとしている学生たちの優しさや気配り、学ぶことへのまっすぐさを感じる日々だったといいます。
子ども相手でも子ども扱いせず、美しい言葉でたくさん語り掛ける
nullおそるおそる「実習に行かれた際は、子どもたちから怖がられることはなかったのでしょうか」と聞いてみると、にこっと微笑み、こうおっしゃいます。

「こんなあれ(ご自身のお顔を指して)ですけど、小さなお子さんも、あまり警戒せずに私のもとに寄ってきてくれましてね。子どもたちから一日十数回抱っこをせがまれて、かねて悪くしている腰にこたえました」
保育実習で子どもたちと接した時の様子を、その場で再現してくれました。子どもの目線に合わせてかがむ緒方さん。腰の痛みに「うっ」と声をもらしながらも、優しく語りかけます。
「“こんにちは、〇〇ちゃん。緒方と申します。今日はたくさんあそぼうね。よろしくおねがいします”……このように申しますと、その子の顔がパアッと明るくなります。私が申し上げた言葉の意味がまだわからない月齢の子どもでも、この人は自分に関心をもっているんだ、と理解していただけるのですね」
子どもを子ども扱いすることなく、真摯に接する緒方さん。乳幼児のあやしかたとして、おすすめの方法を聞いてみると、取り出したのは薄くて黄色い布。
「この布を手の中で丸めて“あれ? 何が隠れているのかな?”と問いかけます」
徐々に手を開いていく緒方さん。黄色の布地がもこもこと広がっていきます。
「ひよこさんだ! ぴよぴよぴよぴよ……」



こうすると子どもたちの目は布に釘つけになり、喜ぶのだそうです。
オーガンジーと呼ばれるその布の存在も、短大で教わったのだとか。手芸用品店で用途を話すと、店員さんが懇切丁寧に相談に乗ってくれたといいます。
「格好つけたところで、何も始まりませんのでね。虚心坦懐(先入観なく、平静に、ことに臨むこと)に、その分野の先達の方々に教えを請うと、幸いにしてひとりとして拒む人はいなかった。それは本当にありがたいことでした」
「こんなのも役立ちます」と取り出したのは、ズボンのポケットにいつも忍ばせているポリ袋。記者時代には事件現場で見つけた銃弾や吸い殻を収納するために持ち歩いていましたが、今はポリ袋のなかに小さな風船が。「これをふーっと膨らませるだけで、子どもたちが喜んでくれる」のだとか。


保育士や自治体への相談、遠慮はいりません
null昨年3月に無事、短大を卒業。現在は、朝日カルチャーセンターで事件・犯罪講座の講師を務めながら、子どもや子育てにまつわる社会課題について取材や発信を続けています。
SNSでは“子持ち様”などという言葉が飛び交い、少子化社会で子育てをすることに肩身の狭さを感じている読者も多いのでは。緒方さんは「保育士に相談することを、躊躇しないでほしい」と話します。

「2008年から保育士の業務に“保護者支援”が新たに加わりました。保護者の育児に関するサポートを行うことが、保育士の業務のひとつになっているのです。
もちろん担当保育士ひとりで問題にあたるのではなく、主任保育士や先輩保育士が協力するでしょうし、場合によっては、自治体や児童相談所など必要な機関と連携することも。
保護者のみなさんとお子さんが幸せに暮らせるようサポートする動きは、まだまだ十分ではないとはいえ、進みつつあります」
さらに「地下鉄や街でベビーカーに子どもを乗せて歩く親御さんを見るたびに、できるだけ他の人の迷惑にならないように、という思いを感じる」と緒方さん。

「もっと堂々と子育てしていい世の中にならなければいけない。自治体の窓口に相談するのにも、遠慮はいりません。どうかおひとりだけで悩まず、気軽に、胸を張って周囲に頼りましょう。
相談したのに担当者が横着しているとか、“どうせ自分はあと数年で異動しますので”と吐かすような態度の不届きモンがおったら……失礼、言葉が悪くなりましたが、万が一適切な対応がされないのであれば、それは報道されるべきことです」
力強い口調で「埒があかなくて困っている、とんでもない対応をされたというようなことがあれば、私までどうぞご連絡を……」と言ったあとで「なんて、調子に乗って喋りすぎました」と照れくさそうに頭を下げる緒方さん。
もっている知識やこれまでのキャリアを一切鼻にかけず、まっすぐに学び、誰に対しても謙虚に接する。子どもたちや年下の学生たちに愛されるわけがわかったような気がしました。
――子どもは無条件に愛され、慈しまれて、すくすくと育つべきである。
著書『事件記者、保育士になる』では、慣れない世界で奮闘する緒方さんの様子が詳しく綴られています。緒方さんの真摯な姿勢や、子どもたち、学生たちへの思いにじんとくる一冊です。そちらも合わせてお楽しみください。
取材・文/塚田智恵美
撮影/田中麻以(小学館)

【参考文献】
『事件記者、保育士になる』(著・緒方健二、税込1,760円、CCCメディアハウス)
黒スーツ、角刈り、強面。元朝日新聞警視庁キャップが短大保育学科へ。
地下鉄サリン事件、あまたの殺人事件、凶悪犯罪を39年にわたり取材してきた事件記者の緒方健二さんが、新聞社を退職後、北九州、保育学科のある短大に入学。
10代の同級生や同年輩の教師陣と切磋琢磨し、実習先で子どもに大切なことを教えられる、奮闘の日々を綴る。“事件取材の鬼”といわれた元事件記者の挑戦の行方はいかに?