愛猫・イオちゃんの死を受け止めて魂と共に生きる。猫沢エミさんの死生観とは
null「彼らの仕事は人を癒やすこと」とも言われる猫。ペットという存在を超え家族の一員として迎え入れて、幸せな時間を共有することができます。が、当たり前ですが私たち人間より寿命は短く、いつかは死と向き合わなければならないのです。
ミュージシャンであり文筆家でもある猫沢エミさんは、イオちゃんというメスの猫と出会い、彼女の一生を見届けてフランスに渡りました。猫沢さんのインスタグラムには、味わい深い写真とともに、日常や想い、時には魂の叫び(たまにダジャレ)が生を感じる言葉で綴られています。
新宿の道端でボロボロの姿で猫沢さんに保護されたイオちゃんは、猫沢家の先住猫であるピガピンジェリくん(ピガ兄)とユピテルくん(ユピ坊)とともに幸せをつかんだ矢先に病気が発覚。約1か月半の闘病を経て、天国タクシーに乗り虹の橋を渡りました。著書『イオビエ』では、イオちゃんの病気に向き合う日々のどうしようもない気持ちや、亡くなってからの心の揺れなど、猫沢さんのリアルな機微に触れることができます。
「『イオビエ』を買ったけれど開けないという方、読むのは今じゃないのかもと思ってしまったという方がいらっしゃいました。今の日本の人は、心を揺らすことに耐性がなくなっている感じがしています。ものすごく喜んだり激しく泣くにはエネルギーを消費しますよね。平常心ではいられないけれど、そうすることで解消されることはたくさんあると思うんです。だから、『イオビエ』を読んで、温かく良い涙を流してほしいです」(「」内、猫沢さん)
家族である猫(やほかの動物たち)を看取る。苦しく悲しいことですが、猫たちには幸せを抱えたまま天国タクシーに乗ってほしい。そのために飼い主が持つべき心構えを、猫沢さんにうかがいました。
主役はあくまでも動物たち。人間のエゴにならない選択を
null-家族である動物の死が近づいた時、飼い主はどんな心持ちでいたらいいのでしょうか。
猫沢さん(以下、敬称略):長く生きられないとわかっても、飼い主さんはどうにかして長く生かしてあげたくて「何がいいんだろう」と迷って迷いまくると思うんです。だから、つい自分のエゴが前に出てしまうことがあるんですよね。十分に頑張っている子に向かって「頑張ろうね」と、希望のない治療を選択してしまうことがあるんです。
究極に追い詰められた苦しい中で「何かしてあげなきゃ」と飼い主さんが選んだ方法を、動物たちは受け入れてとことん付き合うんですよ。飼い主さんが頑張ろうといえば、頑張る。人間とは違って言葉で意思の確認ができないのは、とても苦しいですよね。だからこそ迷う。
-大変な病気だとわかった猫の飼い主さんたちのSNSでも、闘病中の迷いを目にすることがあります。
猫沢:そうですよね。私が心がけたいと思っていることは、いちばん苦しいのは私じゃないということです。病気と闘うにしろ、闘えなくて旅立っていくにしろ、主役はその子たち。旅立ちはその子たちのグランドフィナーレなんです。
それを頭に置いた状態で選択していくと、やっぱり最期は苦しまず穏やかな状態で迎えさせてあげたいと誰しもが思うと思うんです。例えば私の場合、イオちゃんは扁平上皮ガンという希望のない病気にかかり、進行が速く、何をしても苦しむ死しかなかった。私もたくさん迷いましたが、最終的に、痛みを抑えたり緩和ケアをしながらもイオちゃんが自分らしくいられるギリギリまで見守る道を選びました。
-家族の死を目の前にしてなにかを選択しなければならないのは、耐え難いことですね。
猫沢:そのときにベストな治療法を選んでも、必ず後悔は残ります。ひとつを選ぶということは、それ以外の無数の可能性は選ばなかったことになるので、どれを選んでも絶対に後悔は消えないものなんです。
これは動物だけじゃなく、例えばご両親や子どもの看取りをしなきゃいけない時にも、どんな最期を選んでもついて回ることだと思うんですよね。あなたがそれを選ばなかったから、もしくは選んだから起こることではなく、みんなが抱いていることだと心に留めてほしい。
私もそうでしたが、病気の子とたったふたりで闘っている時はものすごく孤独になるんですね。生きていてこんなに苦しいことはあったかな、と思うくらい。それは経験した誰もが思うこと。同じ気持ちを共有・共感できるのが今回の書籍『イオビエ』だと思っています。「私だけじゃないんだ」と寄り添える1冊じゃないかな。
「死」についての議論をもっとラフに。自分なりの死生観を持つことの大切さ
null-「できるだけ長く生かしてあげたい」と飼い主が思っても、それが逆に彼らを苦しめることになっているのかもしれませんね。
猫沢:先ほども言いましたが、どこまで自分のエゴを抑えて、その子が主役の選択をしてあげられるかということ。あとは私の意見でしかないですが、気持ちは痛いほどわかるけど「頑張ろうね」は違うと思うんです。もう、十分頑張っているから。
私は決して安楽死を推奨しているわけではないですが、安楽死という選択肢が自分の中でひとつのものになったきっかけは、フランスに住んだ経験が大きく影響していると思います。フランスでは動物の最期の選択肢としての安楽死は、スタンダードになってきています。もちろんきちんとした基準があり、あと数日の命しかなく、その数日生きていたとしても苦しいことしかないだろうという時に、獣医の先生が丁寧に勧めるんです。
フランスはクリスチャンの国ということもあり、自死というのはとても罪の意識が高い。以前フランスの獣医師にインタビューした時、「医学的なことで安楽死を勧めても、宗教観の違いで飼い主さんが自然死しか認めないケースがある」と聞きました。
自然死を選んだがゆえにとても苦しい最期を見なければならなかったり、逆に安楽死を選んだけれどやっぱり罪の意識に苛まれたりと、その選択はフランスでも本当に難しい問題なのだそうです。
それでもやっぱり私は、将来的に、スイスのように安楽死という選択肢が人間にも得られるようになるといいなと思います。自分らしい意思表示ができるギリギリのところまで家族や大切な人と一緒に過ごして、楽しいままこの世を去るという方法があってもいいんじゃないかと。最後のお守りだと思うんですよね。
安楽死というお守りがあれば、楽しく幸せなまま最期を迎えられますし、送る側も苦しむ姿を見ることはない。安楽死をやるかやらないかではなく、それについてとことん話し合うことがまずは大事ですよね。
-安楽死が普段話題にのぼることはないですから、突き詰めてきちんと考えたことはないですね。
猫沢:そういう死生観は、日本の場合は宗教や哲学、精神医学の側面で語られることはあっても、一般的に話しませんよね。
フランスでは飲みながら「理想の死ってなに?」「神っていると思う?」という話題が、当たり前のようにテーブルにのってくるんです。フランスは哲学大国でもあるので、小さい頃から死生観に対する自分の意見が言えるようなところ。その対話があるということがすごく大事で、自分がどう思うかということを持っている人が多いです。
-自分なりの死生観を持つことが、幸せに生きるひとつのカギになるのでしょうか。
猫沢:大切なことだと思います。私がしたイオちゃんの見送り方は、父と母の見送りがすごく影響を与えています。
父の病気がわかった時はかなり厳しい状況で、先生は手術を勧めたけれど、素人の私が聞いてもそれは意味のないことだとわかるものでした。うちの父は手術もその後の苦しい治療も全拒否して、亡くなる4日前にコンビニで肉まんを買い食いし、ふと振り返ったら眠るように亡くなっていたという穏やかな最期でした。
それを迎えることができたのは運がよかったのもありますが、父が自分で死に方を決めてブレなかったからだと思うんです。自分らしく、自分のままで人生を全うして逝くことができた。
母はごく普通の主婦で、どんなふうに生きてどのように死んでいくかというビジョンをまったく持っていなかったため、病に苦しんでいる間「死ぬのが怖い」とずっと言っていました。
それを聞くのがなにより辛くて。代わってあげられないし、途中まで一緒についていってあげることもできない。死生観を持っていないことはこんなに苦しいものなのかと思いました。どんなにいい人生を送っても、最期に死を怖がるというのは苦しいことです。
父と母のそんな両極端な死への向き合い方を見ていたため、イオちゃんの時に自分ができる精一杯のことをできたし、納得できたんです。5日間駆けずり回って5人のドクターに会い、サードオピニオンまで取り、そして現在の日本の獣医界のトップクラスの先生方が「希望がない」と言われるのであれば、本当にそうなのだろうと。そこで、穏やかに見送ることに全力を注ごうと決めたんです。
肉体はなくなっても、愛した動物たちの魂は心にずっと置いておくことができる
null-イオちゃんが亡くなったあと、どんなことを考えていましたか?
猫沢:毎日同じようなことを考え、毎日同じようなことを言っていました。「あそこはよくなかったんじゃないか、悲しいなぁ、いないなぁ、愛しいなぁ、会いたいな」「でも前を向こう」「ダメだ、今日は」というのをとうとうと波のように繰り返してやっと光が見えてくる。
「もうこんなに時が経ったのにまだ泣いている。情けないな」と思っても、そんなの情けないに決まってるんです。パリに行った今でも考えます。イオがいなくなって苦しかったという気持ちを丸ごと胸に抱いて、新しい方を向いて歩いていくという作業です。
-飼っていた子を亡くして辛かったから、もう二度と飼わないという人もいます。
猫沢:自分が愛しいと思っていた子から受け取ったものはたくさんあると思うんですよ。愛とか優しさとか、この子と暮らすことで自分は成長したと感じること。
体は失うけれど、その子から受けたものは自分の中に魂のDNAとして残ります。そのDNAは、これから自分が幸せに暮らしていくために使ったり、次の新しい子にもっと大きい形で注ぐこともできる。トラウマにしないでほしいです。悲しんでいるだけだとそのDNAに気づくことなく、だんだん失せていってしまう。せっかく残ったその子の魂がもう一度死んでしまうことになるから。
だから私はイオちゃんのことを2回殺すことはできないと覚悟を決め、永遠に死なない形でここ(胸)の中に置く作業をやりました。1年くらいかかったでしょうかね。
生きている時も死んでからもオーダーメイド。ポジティブな心の残し方で幸せな気持ちに
null-今、イオちゃんの骨はどうされていますか?
猫沢:納骨をせず、先代猫のピキの骨とともに部屋に置いています。いつか逝くであろうユピとピガも、これから飼うかもしれない子たちも、みんなそばにいたらいいよ。自由に出入りして、でもここが実家だからねって。
死んだら二度と会えないとか、遠くへ行っちゃうというイメージがあるから寂しくなります。でも、体がなくなってもイオちゃんは私のここ(胸)にいていつも一緒にいると思うと、悲しいよりあったかい気持ちになるんです。それはファンタジーってわかっているけれど、生きていく時のとても苦しい想いを乗り越えるための優しいファンタジーだと思います。
-肉体はなくなってしまっても、魂は猫沢さんとずっと一緒にいられるから、イオちゃんも寂しくないですね。
猫沢:死と生を切り離して、亡骸を離れた冷たい石の下に置くという、既存の宗教にのっとった弔い方とはちょっと違う、ハッピーな死生観があってもいいと思うんですよね。死を見つめるということは「死」のことだけを考えるのではなく、死の前にある「生」にも目を向けること。イオちゃんの死を通して、どう生きるかをクローズアップしたのが『イオビエ』だと思っています。
イオちゃんがタクシーに乗って天国に舞い上がり、それを見ながら私は手を振っている。私たちが残されたんじゃなくて、イオちゃんは私が想像した天国に行くんだという、その先を見ているから。
私が描く天国は、おっさんみたいな神様がサーフィンをしていたりする変テコなところ。これはひとつのケースでしかなくて、みんながそれぞれに想像した神様や天国で、見送った子たちが幸せに暮らしているんです。亡くなったあとも含めて全部、人生はオーダーメイドだから。
そういうポジティブな心の残し方が、私はいいなと思っています。離れたくなければ一緒に生きていけばいい。心の支えにして、辛いことがあった時は思い出してちょっと幸せな気持ちになる。それだけでこの子の命は十分に宿っているんですよ。
また新しい子を飼ったら、イオちゃんの時にできなかったことをこの子にはしてあげようとか、そうしていくとあとの子たちは飼い主さんからどんどん大きな愛をもらえるようになる。これが愛の遺産だったり魂の遺産じゃないのかなと思っています。
次回は、猫を飼っている人やこれから飼おうと思っている人が、猫が元気なうちにやっておくべきことをうかがいます。もちろん猫だけでなく、一緒に暮らしている動物がいる人みんなに参考になることです。お楽しみに。
取材・文/斉藤裕子 撮影/浦田 拓、関めぐみ(トップ画像)
猫沢エミさん
ねこざわえみ/ミュージシャン、文筆家、映画解説者、生活料理人。2002〜2006年、一度目のパリ在住。
2007年より10年間、フランス文化誌『Bonzour Japon』の編集長を務める。超実践型フランス語教室《にゃんフラ》主宰。著書に『ねこしき』(TAC出版)、『猫と生きる。』『パリ季記』(ともに扶桑社)など多数。2022年2月より愛猫を引き連れ、二度目のパリ在住。
Instagram:@necozawaemi
『イオビエ 〜イオがくれた幸せへの切符〜』
猫沢エミ著 TAC出版 1,980円(税込)
昨年大ヒットした前作『ねこしき』の著者・猫沢エミ氏による、待望の最新刊!
本書では、2019年に路上で保護した猫のイオちゃんとの出会いからお別れまでの1年半の物語を、イオちゃんが語る小説と、著者自身のSNSの日記を交えて綴ります。猫沢家の一員となったイオちゃんは、餓死寸前から奇跡の復活を遂げ、第二の豊かな猫生を送りましたが、急性の扁平上皮癌が発覚。1か月半の闘病の末、2021年3月にこの世を去りました。イオちゃんが天国へ旅立つまでの軌跡は、猫沢氏のSNSを通じて発信され、国内外問わず大きな感動を呼びました。
心温まる一人と一匹の愛の物語を、ぜひお読みください。
※前作『ねこしき』でも大好評だった猫沢家のレシピも多数収録しています。