自由な旅ができなくなってから、むしろわたしは身近なことに「旅」を見つけるようになった。
nullそもそも旅ってなんでしょう。
美しい街並みを見て感動すること? 美味しいものを食べること?
ヨーロッパの古い街並みを見て観光客は「素敵な街!」と感動するけれど、そこに住んでいる人にはただの街です。心踊るアジアの屋台も、現地の人にとっては“いつもの”食事処。
ただこちら側がそれを“新しい”“楽しい”と感じるから<旅>になっているだけなのかもしれません。
だったら、その“新しい”や“楽しい”感覚は、日本にいたってきっと感じることのできるものなのかも。
例えば玄関を一歩出て、いつもは会社に行くだけの通勤路をカメラ片手に歩いてみるだけでも<旅>的な何かは始まります。
「ああ、ここには柿の木があったんだ」
「あ、このコンクリートの絵柄、可愛いな」
「あの家の屋根から覗く、風景がなんだか素敵」
なんでもないことです。でも旅に出て得られる一番楽しいことってこういう「いつもと違った目線での新しいもの・こと発見」ではないでしょうか。
であれば、なんでもない風景を新しい気持ちで臨むこともまた<旅>であるってことじゃないかな。
体には簡単に羽は生えないけれど、その代わりに心や気持ちに羽を生やして自由に飛び立ってしまえばいい
そうやって生活の中に<旅>らしいものを取り入れて行けたらなら、それはそれで素敵な旅ライフになるのかも、と思うのです。
第1回:アジアの湿度。
null冬は色々とカサカサしてる。
肌や髪の毛、そして緑が抜けた木々の葉っぱだけじゃなくて心も少しカサカサしている。止めたいけれど、止まらない乾燥。
こうなってくると、日々どうでもいいことにも余裕がなくなる。
しびれるような寒い日には街にダウンを着込んだ人がたくさん増えるけれど、いつもよりもモコモコとした自分の身幅に慣れない人たちが、いつもよりたくさん人にぶつかったりよけ損ねたりしてイライラするシーンを見かける。
ああ、カサカサ。
寒くて電車でもお店でも、他の人よりもいち早く中に入りたい。だからみんな我先にドアへと急ぐ。その急かされるような流れに心がチクチク。
ああ、カサカサ、カサカサ。
肌ももちろんカサカサ。
朝にどれだけたっぷり化粧水をつけて、保湿クリームを塗りたくって家を出ても外に1時間も出れば乾燥してチリチリと細かいシワができ始める。ひどい時には肌がひび割れてくる。
そんなことを感じ始めたら、湿度を高めたくなった。
「うるおい」なんてなまぬるいキーワードじゃなくて、じっとりとした湿度。
それが今私には必要だ。
中国茶で体の中から湿度を高める
ひどく寒い日になると、わたしは若いころ短期留学で訪れた中国の天津を思い出す。
初めて天津を訪れたのはちょうど2月の春節(新正月)が始まる日だった。
空港にも響きわたる爆竹の音と、一気に肌の湿気を奪っていくような冷たくて乾いた風。とにかく日本とはまるで違う空気感にただただびっくり。
大学の寮の部屋は暖房が効いていたけれど、廊下や教室、そして天津の街はどこを歩いていても乾いた空気と冷気がチクチクさしてきて、2、3日ですっかり肌もカサカサ、心もカサカサ。
あの時、どうやってそのカサカサを乗り越えたんだろう。
それは鼻が覚えていた。ふと鼻先に浮かぶ茉莉花茶(ジャスミンティー)の良い香り。
休みの日に、現地の友達がちょっと良いお茶の問屋さんに連れて行ってくれた。おこずかいの中で買える一番良いお茶を買って、葉っぱを大きなマグカップに放り込んでお湯を注ぐ。
茶漉しなんて使わずに、お茶が少なくなればそのままマグカップにお湯を足す現地スタイル。そのぶん楽チンだからお茶の味がなくなるまで何十杯、何時間でもゆっくりそのお茶を飲んでいた。
そのときはお茶の香りと湯気のおかげで(若さもあって)あっという間に心も肌も湿度を取り戻せたのだ。天津の友達も、近所にあった美味しい料理屋の人もそういえばずっと手元には大きなマグカップがあって、寒い季節にはそのマグカップを離さずに、耐えずお湯を注いでいた光景を思い出した。
それを思い出したらいてもたってもいられなくなって、友人を誘って中国茶を飲みに出かけた。
中国茶専門店『青玄茶荘』
わたしのとっておきのお店は浅草からもすぐ、本所吾妻橋という街にある中国茶専門店『青玄茶荘』。
親子(ご両親は店内で掛け軸の表装を手がけている)で経営されているお店で、娘さんの天草香織さんが中国茶を担当している。
香織さんも2年ほど北京に留学していたそうだ。学生時代から茶道を習うほどお茶好きだった香織さんは、そこで北京にお茶を卸しに来ていたお茶屋さんと知り合い、中国茶のいろいろを教えてもらったんだとか。
もともとは空き事務所だった建物をリノベーションした店内は、すっきりとしていてとても居心地の良い空間。午後の明るい光のうちも、日が暮れて目の前の隅田川に屋形船が行き来するような時間帯に来るのも好き。
ちなみに今日、わたしが頼みたいお茶はお店に入る前から決まっている。
「オリジナルブレンド茶をください」
ここは凍頂烏龍茶や阿里山金萱烏龍茶、茉莉花茶白龍茶など質のいい茶葉の工夫茶(中国茶器で丁寧に淹れるもの)が揃うのだけど、今日はブレンド茶を飲むと決めていたのだ。
「今日の調子はどうですか?」そんな風に香織さんが聞いてくれる。
私は待ってましたとばかりに答える。
「とにかく体も心も乾いていて、なんだか重くてスッキリしないの」
そう伝えると、にっこり笑って香織さんは様々な缶から少しずつ、わたしのために調合を始める。そう、このブレンド茶はこうやって自分の体調や気分に合わせていろんなものを組み合わせてくれるのだ。
「今日はちょっとデトックス寄りのものにしました。なつめ、クコの実、イチジク、陳皮、菊、ベースはプーアル茶」
ガラスの急須の中にお湯を注ぐと、なつめやクコの赤がくるくると回ってとても綺麗だ。抽出される間、じっと眺めてしまう。
ここでは一煎目は香織さんが淹れてくれるから、中国茶の淹れ方を知らないひとでもだいじょうぶ。
目の前にはガラスのヤカンに入ったたっぷりのお湯が置かれるので、2煎めからは自分でお湯を足しておかわりを楽しむスタイル。
「1時間以内に帰るお客さんはほとんどいませんね。お茶自体の味は5〜6煎が適度なんですが、皆さん味が薄くなっても香りを楽しみたくて10煎くらい飲まれています」
確かにわたしも毎回、香りだけがついた、ほとんど味はお湯みたいな状態になるまで飲んでしまう。だって上質な中国茶はそれでも美味しいんだもの。
友人は本格的な中国茶が初めてだったので、飲みやすくて香りの高い阿里山金萱烏龍茶を選んだ。
“わたしの”お茶は、プーアールのつちくさい強い香りの中に、なつめやイチジクのじんわりあまい香りが加わって胃の中にポッとあたたかい灯がともる。それと同時に耐え難いほどのカサカサが、するりとほどけて程よい湿気に満たされてくるのを感じた。ああ、これこれ。これが欲しかったの。
香織さんはもともとセラピストの仕事をしていたそうだ(今もイベントなどおこなっている)。最初は八宝茶という最初から様々なものをミックスしたお茶を出していたのだけど、だんだんその人それぞれに合わせたものを提供したくなったそう。
「リラックスしたい人、冷えがひどい人などその人に合わせてベースや配合を変えています。反応が良い人は飲んだ後お風呂上りのように顔が赤くなったりする人もいるんですよ」
ちなみにお茶を頼むと日替わりのお茶菓子が付いてくるのだけど、今日はドライフルーツの盛り合わせ。
みかん、黒イチジク(イチジクの中でも一番栄養素が高いそうだ)、安納芋のグラッセ、ざくろ(種がカリカリとしていて美味しい)、なつめ。
中国茶の香りと、ドライフルーツのほのあまい香りが非常に合う。食べ応えもあるから何度もお茶をおかわりしながらゆっくりと摘んだ。
途中、今度メニューに加えるかもしれないという蜜蘭香というお茶を試飲させもらった。香りはほうじ茶なのに、味は紅茶に近く、飲み終わった後の杯を嗅ぐと濃厚な蜜の香り。なんて不思議。
そうそう、中国茶は注いだお茶、飲んだ後の杯、またその杯を乾燥させた時の香りが全て違う。それがまたたまらなく楽しい。
お互いの中国留学時代の思い出話や茶器の話など話題も尽きず、気がつけば2時間が経過していた。心も体もすっかりデトックス、完了。
わたしたちの話をお茶を飲みながら静かに聞いていた友人が帰り際にポツリとこういった。
「なんだかわたし、いい旅をしてきたような気持ちになったよ」
松尾 彩(コラムニスト/エッセイスト)
フリーエディターとして20年以上にわたりファッション誌、ライフスタイル誌、カタログ制作などに関わる。結婚を機に旅やライフスタイル中心のコラムニスト/エッセイストとして活動。小学館「しごとなでしこ」にて猫のコラム「ネコテキ(現在終了)」連載他、アーバンリサーチのウエブメディア「URBAN TUBE」にて”旅以上、移住未満”をコンセプトに旅エッセイを寄稿。子なし猫1匹あり。